→戻る(はじめに)

第10話  医療事故死に思う

 
 九月から十月にかけて、医療事故死の報道が相次いだ。東京大学付属病院の輸血時空気血管注入事故、関西地方某病院の輸血時エルシニアン菌混入事故、慈恵会医大青戸病院の前立腺癌腹腔鏡手術事故等々。どれもみな、些細にしてかつ重大な不注意・過誤、あるいは生体実験的無謀手術によって引き起こされている。医療行為にミスや失敗はつきものとはいえ、昨今マスコミで報道される医療事故の多さ大きさは、ただごとではない。医療従事者たちの心の中に、何か尋常ならざるものが欠落している証左であろう。

 三〇年ほど前、湯たんぽで低温火傷を負った娘を近くのK医科大学付属病院に連れていった時の出来事である。
 それは、当時の私よりいくつか若いまだ三〇半ばの、やせぎすの男性医師だった。「ウエノ講師、ウエノ講師」と看護婦たちは呼んでいた。彼は、チューインガムを噛み噛み、看護婦たちに冗談を言いながら、いかにも手だれのような無造作な手さばきで、幼気な娘の左足中脛にメスを入れ、そしてあっという間に、紅い真皮領域を大きく楕円形状に切り開き、切り除いてしまった。
 事前に何の説明もなく、患部に塗り薬を貼るぐらいだと思っていた私は異様な進展に思わず声を上げた。
「これは、どういう治療ですか」
 医師は私の方に顔を向けるでもなく、相変わらずチューインガムを噛みながら、いとも当然のように、
「植皮します」と、素気なく言った。
 今でも悔やむ。治療室とは上下に大きな隙間のある仕切壁で仕切られただけの待合室で待つ間、前の女性患者がその医師にか細く切ない声で抵抗する様が、聞こえていた。
「植皮はしたくありません」
「もう切っちゃったんだから、表皮は出てこない。植皮しないと、痕がケロイド状になるけど、いいですか」
 このやり取りの後、うなじの当たりが患部なのだろうか、首にぐるぐる巻いた包帯の上からそこをいとおしむように手で押さえながら、二十前後の若い女性が悄然とした様で治療室から戻ってきた。
 この出来事が咄嗟に思われ、この患者と私の娘が、患者を利用して技術を磨こうとする悪魔的行為の実験台にされたことに即座に気付いた。メスを用いらせる前に、その治療行為を質しておくべきだったと、即時の悔恨が今でも胸の奥底にうずくように留まったままである。
 植皮などとんでもないという私の怒りに対し、医師は平然と、先の女性患者の時と全く同じ言葉を発した。医師である義父に相談して今後を決める旨伝えると、娘の手術後の手当をしながら、彼はようやく私に目を向け、私の質素な普段着姿を眺め回してから、うっとうしげに、いかなる医者か訊いてきた。
 当時の記憶はなお鮮明である。義父が宮内庁病院顧問医師であることを聴くや否や、ついていた年輩の看護婦の顔がたちまちひきつり、青ざめ、医師はと言えば、問われもせぬのに、半ば突っ張り、メロメロと喋りだした。曰く、自分たち(K医科大学)の植皮技術は日本最高だ、例えば警察病院よりも優れている、宮内庁病院では植皮などできない・・・。手術中、医師は看護婦に写真を撮らせていた。学会発表や論文作成の似非資料にでもするつもりであったろう。後日、私はその写真ネガを要求したが、撮影に失敗したとか、紛失したとか、いいわけに終始し、ついに渡さず仕舞であった。
 何がどうあれ、真皮まで切り除かれた娘の傷跡はもはや元には戻らない。当時癌研付属病院の医師であった義兄(妻の兄)の紹介で、虎ノ門共済病院に急遽赴き、後に筑波大学に転任した医師の手厚い治療で事後処理をしたが、わが身に生じた事柄の何も分からないまま、手術中もその後のやりとりの間も、終始微笑んでいた三歳の幼子の顔が今でも胸に染みつき、私の生涯の負い目になっている。

 医療関係の友人によれば、報道される医療事故は氷山の一角であり、実態はむかしから特別に変化はないという。では何故、常変わらず悲惨な事故が続発するのか−。思い起こし、銘肝せねばならぬ。昭和天皇が崩御される前、天皇の手術に当たって、医師団は、輸血に備えて天皇の自己血を蓄え、弥が上にも慎重に事を運んだ。斯く、人に向かって畏怖・畏敬の念あるところ、輸血ミス・手術事故など生まれるはずもないのである。
 およそ人なるもの、その躰、その命、ひとしく畏敬されるべきものである。しかしながら、人身・人命を日常的に扱う中で、一部の医療従事者たちはいつか身命に対する畏敬の心を失い、弱き患者を意のままに扱うようになった。
 さる著名な医学者は、ある時入院手術の患者となり、目覚めたときベットに固定され、尿道にカテーテルを挿入されているわが身を通して初めて患者の苦痛と立場、医療の現実を悟ったという。が、患者尊重の医師としてつとに知られていた氏の認識がやっとこのあたりだったなら、それは悲しい。あとは推して知るべし、全ての医療従事者が全ての患者を人間存在として心から畏敬し医療事故がなくなる、恐らく、百年河清を俟つ夢物語ではなかろうか。
 そしてもし、この有様を打開する方策が、被害者たちが起こす医療訴訟以外にないとするならば、これまた悲しい。医療世界の果てしない猛省こそ求められる。

〈付記〉なお娘のケース、医療訴訟を決断したが、ことを起こせば義兄が医学の世界に居られなくなるとの義母の必死の頼みで、断念した。が、娘の傷痕を見るにつけ、たくさんの医療事故被害者に思いを寄せるにつけ、今でもそれを悔やむ気持ちが消えやらない。

→戻る