痴漢・セクハラその他性的不詳事件が後を絶たず、新聞・雑誌・テレビニュースの格好の話題となっては世間を賑わせている。人心の腐敗があまねく行き渡った感のある時代とはいえ、つい一年ほど前、公正・正義・人道を守る最後の砦ともいうべき裁判所判事が相次いで性的不祥事を起こして世間を騒せた。曰く、妻子をもつ高等裁判所判事がインターネットの出会い系サイトで知り合った複数の女子中学生と援助交際し、地方裁判所の所長ともあろう人が電車内で隣席の若い女性に痴漢行為に及んだ。そしてこの度、経済評論家として名高い早稲田大学Ｕ教授が、品川駅エスカレーター上で、女子高校生のスカート内部を手鏡で覗いたとして、都迷惑防止条例で逮捕された。この事件、Ｕ教授は冤罪を主張しているが、前歴があったり、覗き・盗撮の市販ビデオが押収されたり、情状は極めて悪い。
　一体どうしたことかと訝るうちに、今度は山形大学でのセクハラ事件が立て続けに報道される。いずれも六十を越えた年輩教授が、弟子の女子学生に対し、酔ってそのアパートを訪ねたり、学会への同伴・同宿を企てたり……。同業者として言い兼ねるが、これはしかし何とも言い訳ができない内容だろう。と思う間もなく、これまた驚き、演出家の和田勉氏のセクハラ・ニュースが飛び込んできた。講師先の大学女子学生にホテル室内でわいせつ行為に及んだとのこと、しかも、すでに一審は終わり、東京高裁上告審で、下級審の二百万円からさらに増額されて二百七十万円の罰金判決が下りたというのである。このニュースは、その他もろもろとは異なり、いささか私を落胆させるところがあった。何故なら−、
　多少バタ臭いところもあって、男性美を誇るアメリカ男優ビクター・マチュアに似ていると言われる頃があった。それが加減したのか、短足胴長の際立つ身ながら、これで結構女性にもてたこともあったやに思う。それが額が上がりおつむがさみしくなるにつれ、どういう訳か、間々、和田勉氏に似ていると言われるようにもなってきた。これは私をいたく不快にするところなのだが、どういうつもりか、こんな言い方をする人がいる。数年前、あるところで、講演後の慰労会席の場をもって貰った時のこと、「こんなこと、言っては失礼ですが、先生は作家の和田勉さんに似てますね」と言って、ふふふと笑うのである。失礼と思うなら、言わなきゃいい。これはどこぞの見識乏しい派手派手バーの女も同じ、そのようなところ、私は二度とはけっして行くことはないのだが、その点、年に数度の楽しみ、京都・祇園の花街などでは、横綱千代の富士さんに似てるわね、と心くすぐられこそすれ、この種の不快な思いは一度とてしたことがない。ま、それはともかく、一見骨柄の似るところがあるとすれば、他人事とは申せ、和田勉氏にはどこまでも人品卑しからざる人物でいてもらわねば、妙な連想をはたらかされて品格を疑われるなどあっては、迷惑千万なのである。
　それにしても、痴漢・セクハラ事件は後を絶たない。とりわけ痴漢行為は、各種アンケート結果を見ると、いずれも女性の被害体験率五〇％超、なんと二人に一人が被害を受けていることになる。このうち七〇％が電車内被害だというから、女性たるものおちおち電車に乗ってはいられない。警戒心も旺盛になる。満員の電車が揺れてたまたま身体が触れようものなら、思わずきっとして振り返る習性を身につけた向きもけっして少なくはないだろう。そうした女性に遭遇したとき、私など身のすくむ思いで、目を伏せ頭を垂れて、謝意を表す。しかし、時には反発する気持ちも湧いて、そのようなとき、ふっと、学生時代その場に居合わせた往時の一齣を思い出す。これは随分とひどい話なのだが、今は児童文学者として活躍している友人が満員電車の中できつい眼差しで見返されたとき、思わず激怒し「お前の顔と相談しろ」と相手の女性に罵声を浴びせた。くだいて言えば、お前のような醜女に手など出す奴どこにいるか、という訳である。今ならとても通用しない許されざる言辞であるが、実際、この種の行為に及んで、とんでもない冤罪を被せられた人がいる。
　平成十年二月、朝のラッシュアワー時、京浜線上り電車に乗っていたＳさんは、『間もなく品川』の車内アナウンスのあった直後、突然、前方にいた大きな女性に振り向き様に手を捕まれ「あんた痴漢でしょ」とやられた。身に覚えのないＳさんは、怒りに震え、「お前の○○なんか、百万円貰ったってさわるか、バカヤロ」とやるうち、駅員共々駅事務所まで行く羽目になり、やがてやってきた警官にパトカーで高輪署まで連行され、後は有無を言わさず犯人扱い、手錠・腰縄打たれて二週間の勾留、その後起訴され、無罪を勝ち取るまで、実に二年半十八回にも渡る公判訴訟を経ることになった。その間、弁護団、支援者等と一体となった冤罪立証の現場再現構成など、諸々の苦痛と負担は計り知れない。この事件、佐脇痴漢冤罪事件として知られているが、他にも多数、冤罪を訴え、訴訟で苦闘している人たちがいて、そういう人たち（十三名）が集まり、平成十四年に「痴漢えん罪被害者ネットワーク」を結成している。この団体が、その後いくつかの痴漢冤罪事件の無罪獲得に果たした役割は小さくない。但し、このネットワークの代表者Ｎ氏、五年に渡る公判訴訟の結果、最高裁で上告棄却の罰金刑五万円確定、その後も実名でマスコミに登場するなどしてなお冤罪を主張し続けていながら、十ヶ月後に、帰宅途中の電車内で向かい側座席の女性の足部をカメラ付き携帯電話で盗撮、身柄拘束されている。これは一体、何事なのか。
　どのような事件も、冤罪が起きることは避けがたい。しかし、痴漢・セクハラこの種の性的事件は、日常的な関係性の中でたやすく生じ得るものであり、同時にそれだけ冤罪を生む可能性も多分にもっている。一つは誤解のもとに、二つは悪意と意図のもとに、〈被害者〉が誰それを〈加害者〉として特定することによって簡単に冤罪が作り出される。例えば、後者の例として、密室の研究室を訪れた女子学生が突然性的被害を受けたとして訴え出たらどうなるか。被害者を守るという社会時勢と大学セクハラ問題の話題性の中で、〈加害者〉教員は学内で面白半分さらし者になり、公判訴訟にもまず勝てない。古くは、知る人ぞ知る青山学院大学のＨ教授の事件がその例証だろう。そこで私などは、十分加齢した昨今はともかく、以前は女子学生に訪ねられたら、寒気厳しい真冬でも研究室ドアを開いて面談するのを常とし、最低限の防衛線を張っていた。ある時学生の一人が、そこまで警戒されてはかえってこちらが緊張すると言って笑っていたが、しかし今時の相手はなかなか油断は禁物である。「ね、先生。今は先生と学生の関係だけど、もうじき卒業したら男と女の関係ですよ、ねっ」と、冗談まじりに熱っぽい眼差しを向けるくらいは平気でできる。うっかりその気になったら……。桑原くわばら。なにはともあれ、注意肝心、予防第一、これがひとえに鉄則である。
　さて満員電車に乗るときには、格別必要なくても、私は必ず手提げ鞄を持ち、残りの手で吊革にぶら下がる。どう足掻いたって、不埒な行為は不可能とばかりに−。そして、揺れて左右の女性に触れそうになれば、無理矢理反対側に身をよじっては危険を避ける。満員電車は実に大変、目的駅に着くまでにはもうくたくたである。だから、たまさか前の座席が空こうものなら、なりふり構わず鞄を放って席を占め、へたりこんでは、ようやく安堵の息をつく。しかし、それでもまだ安心ならない時がある。隣り合わせた強面の女性に、肩が触れた、足を触れたとばかりに、あえて不快な仕草をされる。さすれば、せっかく弛めた躰なのに、肩をすくめ足を狭めてなるべく隙間を作り、また恐々と固まらねばならぬ。いやはや、満員電車は、男にとっても、斯く、休まる時がないのであるが……。

　数年前、年の瀬の押し詰まった頃のこと、夕刻ラッシュアワーの中央線特快電車高尾行きに、始発の東京駅から運良く座って乗っていた。電車が新宿駅に着いた時、右隣りの客が降り、そこにＯＬらしき若い女性が我勝ちに席占めをして、へたり込む。その女性、余程疲れていたと見え、電車の発車まもなくうつらうつらし、やがて私の肩に頭を凭れて眠り始めた。ひと駅、ふた駅そのまま眠り、三鷹を過ぎてもまだ私から離れない。国分寺に着き、乗降客の移動する騒々しさにようやく目覚めて顔を上げたが、電車が発車すると、再び私の肩に凭れてくる。その上今度は、肩から腕へと頭がずり落ち、膝上に置いた私の右手の甲に頬を預けて眠り落ちた。む、む。時折電車が揺れて、寸時、顔が手の上から離れこそすれ、すぐにまた戻ってくる。邪険に払う訳にも行かず、といってそのままおけば、何やら若い女性の感触を楽しんでいるやに見えてもしまう。つと思い付き、私は脱ぎ畳んで胸に抱いていたカシミヤのオーバーコートを、彼女の顔が電車の揺れたはずみで持ち上がった時、膝との間に差し入れた。揺れるたび、戻る間に少しずつ少しずつ。やがて、柔らかなカシミヤが恰好の谷形の枕になって彼女の横顔を包み込み、彼女と言えばいとも心地よげに、すっかり安心しきったように、軽い寝息さえ立て始めた。これではまるで恋人同士や親娘ではないか。それかあらぬか、私はいつしか〈枕〉の下に手を差し入れて、電車が揺れて彼女の頭がずれる時、それをそっと私の膝元に戻していた。昨今では珍しい漆黒の髪、そこから透ける白い襟元、ひそやかに洩れ伝う女の香り−。まさか、私がそれに酔い痴れていたとも思えないが……。
　立川に着き、いつものように急に車内がすいて寒々とした空気に襲われた時、はっと我に戻った。彼女が目覚め、顔を上げ、背中も伸ばして、私を視ている。失敗った、よもや、「あなた、痴漢だわ」ではあるまいな。胸が脈拍ち、咄嗟にその対応をめぐらせた。が、瞬時の杞憂に過ぎなかった。彼女は、それまで顔を載せていた私のコートをつくづく眺ながら、小声を発した。
「申し訳ありませんでした、すっかり寝込んでしまって」
　そのくぐもる声に、胸撫で下ろし、心安く見直してみれば、なおさら目鼻立ちの整った細面の清楚な顔立ちだった。娘と同じ年格好、恥じ入る姿が初々しい。「本当にありがとうございました」
　と、膝のコートを戻さんほどに少し手で押しながら、再び詫びる。頭がくらりとするほど嬉しくなった。
「お疲れだったんですね」
　妙なお愛想が口をつく。
「どちらまで」「八王子です」。
　しかし、後は向かいの車窓に目を移し、素知らぬ風を保つしかない。何か気まずく、でも、浮き立つような−。夜景がやがて八王子の街を映し始め、ふっと視線を感じて顔を向けると、彼女は硬い顔つきをして、思わぬことを口にした。
「私のような女、お嫌いでしょ」
　はるかむかしの、映画の中でしか聞けないような言葉とトーン。答につまり、少々狼狽え、ようやくのこと、
「いいえ、うちの娘なんか、一緒に出かけると、よく私に凭れて眠りますよ」
　と、言葉を見付けたが、彼女は恥じらうように下を向くと、後はそのまま押し黙った。
　八王子駅にはたちまち着いた。彼女は軽く会釈し、席を立ったが、ホームに下りたところで振り返り、再び小さく辞儀をした。その一瞬、彼女が名残惜しげな風情を見せたかに思えたが、それは私の心映しの所為だったのだろうか。

　人が集うところ、必ず、なにがし人と人との出会い・際会の場ともなる。私と通勤帰りの未知なる女性がこうしてひとときふれ合った電車の中もまた同じであろう。その一つの出会いの場でもある電車内が、昨今、淫らな衝動に駆り立てられた痴漢たちの跋扈する、疑念と警戒に満ち溢れた緊張の場と化している。そこでは、加害者のみならず、被害者もまた、邪念を持って人を見、時に冤罪者を作り出しもする。私のこのエピソード、その後周囲の若い人々に語り聞かすと、男女を問わず、ほぼ一様に、若い女性が熟年の男を誘ったのだと言う。なんと悲しい、邪念に満ちた解釈なのか。
　幼い子供は知らず、長ずれば老いも若きも人は皆、常に異性を思い、憧憬し、そこから、大いなる癒しや慰みがもたらされる。急かされ疲れる年の瀬に、かの女性と私は、束の間ほのぼの＜異性＞に心通わせ、互いに癒し慰められていたにすぎない。そこにもし邪念が入り込む隙間があったとすれば、それはむしろ私の方であったろう。電車が発車したのち、女性の去りゆく彼方を目で追いながら、不覚にも、不埒にも、私は後追いしたいほどの名残惜しさにとらわれていた。
　憧憬して異性を思うことと、邪念を持って異性を思うことは、もしかすれば、紙一重の差であるかもしれぬ。しかし、その紙一枚の差が、人をして獣にも似た痴れ者にするか否かに道を分かつことにさえなる。「痴漢・セクハラ」談義にことよせ、未だ消えやらぬあの時の心思いを追懐し、人の世の愛しさ、懐かしさをしみじみ心に抱き直した次第であった。