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ー徒然なるままにー
  わがわが老い立ち日記

上 野 一 彦


六〇の手習い 論より実技
 
 ちょうど一年前、デスクワークばかりの生活の中、正真正銘の生活習慣病予備軍として、医者から何か健康によい運動(がんばりすぎて健康によくない運動は多々あるなか)をしないと・・・と宣告され落ち込んでいたとき、友人に誘われ卓球なるものを始めた。
 なにか根暗で、せせこましく、姑息なイメージの卓球。でも私をスキーならぬ卓球場へ連れてってとは誰もいわないが、 松坂慶子主演の「卓球温泉」、窪塚洋介主演の「ピンポン」、そして愛ちゃんと、世は第二の卓球ブームなのだ。
 テニス、ゴルフ、スキー、果てはスキューバと、何でも囓ったおじさんも、新世紀の卓球はまさに未知との遭遇。実技より理論、努力より道具。しかも私が出会ったのはARP理論(文末脚注)というすぐれもの。これは凄いよ。凄すぎる。
 プロの世界は知りませんがアマチュアゴルフでは“イップス”というやっかいな病気がある。スイングやパッティングをする時、まるで誰かがいじわるをしてクラブを引っ張っているように、スムースに動かなくなる“心因性協調運動障害”とでもいうべき病気。
 屈託のない素直な子どもは罹らない、仲間よりすこしでも遠くに、強く、正確になどといった卑しい心が病原。その筋の専門書やらVTRやら、誰も求めていない友人の余計なアドバイスなど、あれこれ頭のなかでゴッタ煮状態のおじさんだけに突然発症する。これはテニスのサービスレシーブなどでも緊張しすぎると同様の症状が表れることがある。
 久しぶりに昔とった杵柄とばかり、道具の進化に瞠目しつつ新型ラケットも手に入れ、意気揚々と第二の卓球人生を開始した。
 ある日突然、卓球型イップスが発症した。初めてでした。あせりました。親切につきあってくれている友人もあきれ顔。練習開始早々、ノーコントロールになるのだから。まるで心身症という病名を社会に知らしめたあの逆噴射の「機長!機長!」状態。もっともウォーミングアップ時だけなのだが、何せ短い昼休み、すぐにゲームを楽しみたい皆さんの中でこれは困りましたね。
 ところが、自然な重力反動と体の動きのARP理論を心がけたとたんぴたりと快癒。ARPがいかに心と体の理論であるかを証明するもの。この話、絶対私のゴルフやテニス仲間には漏らさないでくださいね。
 でも、万人に有効というわけでもないらしい。近くの社教館の地下に誰も使わぬすばらしい卓球場があることを知り、老後の周到な準備とばかり、かみさんを連れ出した。ARP理論さえあればと、恐れ多くも理論を伝授し始めたのだが、ラケットに玉が当たらなければARPもアップ、アップ。
 ひと言でも「へただなー」などとほんとうのことをいえば直ちに中止・撤退は目にみえているので、約一時間、ひたすら「あっ、あたったね、あっ、おしかったよ」と玉拾いに徹しました。まあこれもエクササイズといえばエクササイズなのだが。それからこのすばらしい地域環境もわが家では記憶のかなたに封印された。
 
* ARP理論 元世界チャンピオンの山中教子さんが提唱する卓球理論。Axis(軸)Rhythm(リズム)Posture(姿勢)の三つを基本としてそれをひとつの動作に統合させていく身体運動の新理論で、これを実践していくことでムリなく、ムダなく、効率よく上達することができる。
 
 
 となりのおじいさん
 
 わがマンションの相角の部屋の住む人には生活臭がない。
 介護を受けている老人のようで、五〇がらみの小柄な小父さんがていねいに準備する国産小型介護車に載せられて毎朝のようにどこかに出かけていく。大柄な老大学教授の風体で、足が不自由なのかゆっくりゆっくり支えられ乗車する。おそらくリハビリにでも行くのだろうか。
 地下の平置き駐車場は世帯の数と同じ二〇台ほどしか置けないが、小父さんは件(くだん)の介護車の他に、もう一台自分専用の小型自動車を私の隣に駐車させている。都心という土地柄、外車が多い中で小型国産車、それも二台というのはいかにも場違いである。
 小父さんはときどき見舞いの品のようなものを整理したり、車の中で待機していたりする。こちらもゴミ捨てと車を使う時しか、地下駐車場には行かないのでよくは分からないのだが、かなり規則的な送り迎えのようで、生活のリズムは他の住人とはどこかちがう。  
 親子でもないし、ときどき若い青年が介護を手伝うこともある。共通するのは、老人も小父さんも、青年も一様に野球帽子を目深に被るところだろうか。女気が希薄で、不思議な家族?である。
 都会のマンション暮らしなど「隣は何をする人ぞ」で、二年程住んでいるが、近所つき合いはまったくといってよいほどない。それでも何となく気になる人々ではある。最近、自分の母を老人ホームに預けたところでもあり、「介護ですか、たいへ んですね。私の母も老人ホームにいるのですよ」と、機会があれば話しかけてみようと思うが、隙のないていねいな挨拶だけで弾む会話のきっかけもつかめない。
 奇妙な違和感を感じつつ、半年ほど経ったある日、小父さんと青年に支えられた老人にエレベーターでばったりあった。目深に被るキャップからこぼれる笑顔に見覚えがあった。な、な、なんと、「われらが ナ・ガ・シ・マ」だ。
(後日)
 巨人戦観戦の復帰デイが、巷にニュースとして飛び交うようになったある日。ミスターはリハビリの基地としていたわがマンションを売りに出し、飛び去っていってしまった。右手をポッケに入れたままでもいい。折々出すコメントなんて誰かが代筆してもいい。あなたの笑顔だけで私たちはハッピーになれるのです。ガンバって、ミスター・ジャイアンツ!
 
 
 電車男に列車妻
 
 人にはいろいろな趣味がある。うちのかみさんは光りものと列車が何よりもすき。光り物はわかるけど、列車って? 飛行機よりも、ゴトン、ゴトンという、あの列車に乗るのがすきなんです。つまり列車妻。でもつつましくもいそがしい日々の暮らし。光り物も列車もため息とともにいつもうやむやのかなたへ・・・
 ある日、「ちゃんと聞いている?」のややとんがった言葉とともに、私の耳の端っこに『トワイライトエクスプレス』という単語が飛び込んできた。薀蓄(うんちく)王、雑学博士を密かに誇りとしている私としては、間髪をいれず「あーあ、パリからイスタンブールへ行く豪華列車ね」と知ったかぶり。「ちがうわよ!」「・・・」
 なんとそのオリエント急行のコンセプトそのままに、列車の中とは思えない贅沢な内装、一流のシェフが腕をふるうフランス料理のフルコース、まさに『動く豪華ホテル』がわが国にもあるという。
 大阪発一二時、京都、福井、金沢、富山を経由、直江津あたりが午後六時、日本海の夕日を見ながら北上、本格フランス料理を味わって、ゆっくり青函トンネルをくぐって、翌朝九時に札幌に着く。平成元年スタートのJR西日本のヒット商品。
 かみさんのうっとりした表情。これは手ごわいぞ。脳裏に戦慄が走った。唯一の救いは出発駅が大阪であること。
 なにごともまねが得意なわが国民性。どこかのTV局が若手お笑いタレント集めてのバラエティ番組で視聴率上げれば、必ず他局でも同類の番組を始める。見事ともいうべき悲しい横並び主義。
 JR東日本も上野と札幌を約一六時間で結ぶ、星空の下を駆け抜ける豪華夜行寝台特急「カシオペア」を平成一一年から運行開始。明日できることは今日しないが家訓のわが家でも、善、いや繕は急げ。いつまでもオーバー・ザ・レインボウはとても無理。もはや退路は失われた。
 しかし世はオバサンパワーの旅行ブーム。ヨン様求めての韓国旅行など、秘すれば花の恋心など、蹴散らし、踏みにじりの大行進。お余り、ついで、お情けの、ひっそり片隅人生派としては、「希望の乗車日を選ぶ」よりも、「予約の都合で旅行を計画する」ほうがよいかも。希望日に空きが出ることを願って、ひたすらキャンセルを待つのも一つの手・・・なんていう旅行雑誌のフレーズに乗せられての実現不能を確信しての予約。
 好事魔多し。いや思いがけない幸運。「とれましたー」 旅行会社の頼りない兄ちゃんの上ずった声。直前まで徹夜の仕事。よれよれで上野発一六時二〇分。『駅弁? やめてくれ フランス料理だぜ』
 豪華な室内、TVもトイレもコンパクトな室内になんでもある。窓もドドーンと広く、天井近くまでカーブの展望抜群。まさに満天の星空をみながらの胸おどるロマンチック列車旅行なのだ。
 さてひと落ち着きして、少々早いがダイニングカーでの豪華な食事の予約をと、行ってみれば、乗車前の予約制。あの旅行会社の兄ちゃんの奴と思っても、前の予約、後の祭り。三交替制の長い、長い空白の三時間。それならせめてと放送中の個室お届けのスペシャル弁当と思いしも。な、な、なんと、これも予約制。
 誰が悪いわけじゃない。わたしが馬鹿で、間抜けで、とんまなんです。
「一〇時になればダイニングカーで軽いお食事がとれます」を、こころの頼りに早々の不貞寝。TVみながらトド状態でごろ寝じゃ、わが家にいるのとなんら変わりない。
 うかつにもしばしうたた寝。ゴットンと停まる気配にふと見上げれば、ホームに立つひとびとから丸見えの水族館状態。あわててカーテンを引いて本日閉館。おちおち夜空でもありません。
 盛岡一〇時、やっとぎりぎりのスローフードにありついて、なんとか格好はつけたものの、「星空がきれいだったわよ」と翌朝聞かされる。そう、私はぐっすりのアン・ロマンチック街道。こうして何の感動もないままに、九時少し前、札幌に着いたのだった。
 終わりよければすべてよしとはいうものの、最初に蹴つまずくと最後までいろいろあるもの。賢くレンタカーを予約しておいたのはよかったが、なれない土地こそナビゲーションと意気込んで申し込むも、予約でないとだめ。
 予約、予約と、行き当たりばったりこそ旅の醍醐味じゃないのと嘯きながら、「じゃあ、地図を貸して」「お客様は空港乗り捨てなので、当営業所の地図はお貸しできません」
 世の中のしきたり、知らなすぎるのかなと、あらためて片隅派はいじける気持ちを奮い立たせ、ならば手近で調達と最初の訪問先はコンビニ。折悪しく降り出した雨に、傘はどこだとトランクルームの荷物を探し回って、バコンと閉めれば、ポッケに鍵を入れたまんまのジャケットも一緒。踏んだり蹴ったり、泣き面に蜂。二〇分で来てくれたJAFさんに感謝、感激、雨、あられ。
 もうなんでもこいの破れかぶれのほっかぶり。天災は忘れなくてもやってくる。寄った札幌ビール園でさあこれから試飲というとき、ふといやな予感がしてポケットをまさぐるも、車の鍵がない。なんでこうなるの?魔物に魅入られたように・・・
「ちょっと、忘れ物、すぐとってくる」と、足はがくがく、冷汗びっしょり。おろおろと来た道、あわてて戻りましたがどこにもない。ない。ない。ない。茫然自失。とぼとぼ駐車場まで行ってみると、わがレンターカー、マフラーからかすかな湯気を立ち上らせ、鍵はささったままじゃありませんか。ここまで大胆だと、誰も乗って行こうと思わないものらしい。
 九死に一生、地獄に仏。なんでこうなったか、反省する間もなく、自分自身への不信感募らせながら旅を続けることと相成った。さすがにこれだけあると、その後の少々のトラブルなぞ屁の河童。何ごともノープロブレム、すべて順調に感じたね。
 この日からわが列車妻は、あきれつつもどじな電車男に憐れみに似た優しさを示してくれるようになったのである。感謝。
 
 
 飛んで火にいる悪徳リフォーム
 
 疑うことをあまり知らないお人よしの家人や最近目立ってきた一人暮らしのボケ老人に言葉たくみに近づき、天井裏やら根太の下に親切めかして潜りこみ、このままではあなたのマイホームは明日にも倒壊しますと脅しつつ、要らぬ補強工事を高値で請け負うのが悪徳リホーム。シロアリをビンからまきつつのシロアリ駆除事業などまだまだかわいいものだそうだ。ご用心、ご用心。
 生来の甘いものが好きなせいか、いいかげんな歯磨きのせいか、還暦を前にとうとう両方の奥歯の耐用年数が切れた。「歯が一本なくなると、寿命が一年縮まるんじゃよ」これ亡き八重ばあちゃんの口癖だった。
 そのとき、珍しものずき、新しもの好き、見栄っ張りの三冠王たる私は人生最悪のときにあった。
 独りよがりの人間でも生息可能な大学というところは、時間の自由が利くことが何よりの魅力である。だというのに大学存亡の危機(今おもえば、言葉に踊らされていたような気もするが)に、請われるままに足りぬ知力をかき集めてプランを作り、案文を練り、もっとも苦手な会議を連日繰り返し、未経験な場の中で、すべてのエネルギーを改革に費やしていた。
 おまけに高血糖、高血圧、高脂血症の新三冠王もほぼ集中にし、正直、こころも身体もがたがた状態。ぎりぎり奥歯をかみ締めすぎたわけでもあるまいに、ついにわが奥歯は崩壊した。あまりにも個人的で不適切だが九・一一の世界貿易センタービルにも等しいもろさであった。奥歯に千歳飴とミルキー、前歯にトウモロコシは天敵なのだ。
 一生、豆腐とプリンと心太(ところてん)で暮らすわけにもいかず、いつも三〇分はたっぷり待たされ、親知らず抜くのも、歯科矯正もすべて他の医者を紹介するシステムの、長年通った馴染みの歯医者を避けたのがまちがいといえばまちがいだったのか。
 予約制、至近の高層ビル内の立派な歯医者、いやデンタルクリニックのドアを開けた。愛くるしい受付嬢、ここはどことわが目を疑うばかりの素敵な女医さんの群れ。お水の世界ならぬ、おMs(ミズ)の世界。六つも七つも所狭しと並ぶ診療台、そして奥にはスタッフがトクシンと呼ぶ特別診療室・・・
「どうも奥歯の調子が悪いので、インプラントにしようかなと思うのですが・・・」それが悪夢の始まりだった
 高いのはクリニックの場所だけではなかった。六本の奥歯が○百万。インフォームドコンセントとはいうものの、長時間にわたるさまざまな検査と写真、ぞっとするわが歯型・・・そしてインプラントの結果は人生をしっかりかみ締め、楽しめるバラ色の老後。
 今にして思えば、もっと比較調査、相対見積もり、専門的アドバイスを・・・ いそがしさと何も噛めぬ恐怖から一週間後には半金振り込み、工事は開始された。
 あれから二年三ヶ月。奥歯一六本、糸切り歯四本、前歯八本、今、なつかしいあの人間味あふれた自前の歯はすべて表舞台から退場した。
 奥歯の治療がほぼ終わり、一六本すべて仮歯になったときのこと、治療の合間にこっそり手鏡でわが口の中を見てみた。六本のチタンのネジと円錐状に削りこまれたわが戦友たる旧歯。ターミネーターか人造人間キャシャーンもかくやとばかりの様子。なにやら体内に強さがふつふつとみなぎったね。
 しかし、それでは終わらなかった。前歯の矯正、糸切り歯の治療。レーザーメスだ、痛くない麻酔だ、コンポジットだ、仮歯だと、毎回の治療費も半端じゃなかった。
 確かに院長の指先はメリハリが利いていて技術の高さはよくわかる。仮歯ひとつ外すでも、若い先生は「ちょっと響きます」やさしい言葉通りに、何度も何度も情けなく不器用に繰り返す。院長ならガシッと一発。
 もっとも矯正の先生は親切で美人(いつもタオルが顔にかけられているのであんまりよく覚えてはいないが)。なによりも声が優しい。いつも松嶋奈々子に耳元でささやかれている心地。切った、張った、いや刺す、削るのない矯正なら、月一でなく毎日でも通いたい程だった。
 この幸せな矯正の日々が半年ほど続いた後、ついに運命の日がやってきた。一気に上の前歯四本の治療に入った。診療台の上で、私は突然、天啓を受けた。『なんでもない健康な歯を削りとられているのではないか???』
 長い記憶喪失からの生還のように、アルキメデスが風呂の中で比重の原理の利用を思いつき、素っ裸で王宮に駆けつけた、あのアハ―体験が私に舞い降りたのだった。『これって悪徳リホームとどこか似てない?』
 六本のインプラントが、二四本の全取替え。
 遅いよ、今頃気づくなんて、そんなこと当然でしょ。ああ私もついにボケが始まっていたのか・・・ 
 いまさら光り輝く歯で魅了しようとする新庄選手やヨン様じゃないんです。老いさらばえ歯だけが妙に立派なアンバランスなんて、気にしている割には、みんなが知っている「かつら」同然ではないですか。
『悪・徳・リ・ホ・ー・ム・・・』 その六文字が治療中の私の脳の中を駆け巡った。失礼、院長は悪徳ではありません。飛んで火にいる夏の虫ならぬ、私がド壷に勝手に飛び込んでいったのです。遅まきながら、今、改修工事の全貌が明らかとなった。あの法外な値段は、すべての歯が対象だったのだ。
 インプラントと関連するとばかり信じて、じっと耐えに耐えた二年余だった。かすかな疑問、わずかな不安を言葉にできないのが見栄っ張り、恥ずかしがり屋の敗色濃い戦中生まれなのだ。
 毒を食らわば皿までも、ここまでくればもう引き返せません。今日もまた最後の下の前歯を削りに行ってきた。上下の仮歯をつける前に、鎮魂の思いをこめて、もう一度手鏡を借りた。そこには疲れはてた老鮫ジョーズがギザギザの歯を剥いてじっとこちらを見ていた。
「そして誰もいなくなった」いや、こうして私の健康な歯は一本もなくなったのでした。合掌。 今、わが家にはJAGUAが二台ある。一台はガレージに、もう一台は私の口の中に。
 
 
困ったときの成田詣(もう)で

私は今、マッケンジー・ソープに燃えている。

    「愛をはこぶ人キャンペーン」
 私たちはさまざまな人々の愛に包まれてこの世に生まれ,今,この地上に存在しています.しかし子どもたちの行く手にはさまざまな争い,病気,事故,戦火の絶えることがありません.この混迷する現代,愛と夢を信じ,支えあって生きていくことがなによりも大切なのではないでしょうか.
「愛を運ぶ人キャンペーン」は,すべてのひとびとがお互いに理解し,信頼し,愛をもって夢のある世界を創っていこうとする営みです.
 この運動の推進者の一人である英国の著名な画家マッケンジー・ソープさんはディスレクシア(読み書きに困難をもつLD)で苦しみながらも,たぐいまれな絵画の才能を開花させ,世界中の子どもたちに愛を運んでいます.
 このキャンペーンに大勢の方が参加し,一人ひとりのささやかな願いを大きな愛の輪に広げ,お互いの個性を尊重し,すべての人々がそれぞれに輝く明日を創っていこうではありませんか.
         実行委員長 上野一彦


 ちょっとよい話ではないですか。もう3年越しになります。
ところで今日の話は、このキャンペーンの仲間の一人、H 青年が発端です。
 アメリカのLD事情は、過去二〇年、一〇ヶ月の在外研究も含め、何度も行ったのでおおよそ想像がつくのですが、どうもイギリスはよくわからん。同じ英語圏でも、アメリカは日本同様、一階は一階、でもイギリスは一階を地階、二階を一階といいます。アメリカの地下鉄はサブウェイ、イギリスではチューブ。昔からへんな対抗意識でもあるのですかね。
 両国の差を肌で知りたい。ディスレクシア(読み書きに困難をもつLD)と呼ばれる大人たちの社会での様子を知りたいと思っていたところ、すばらしい同好の士に恵まれての旅行計画が実現しました。ヨーロッパは初めてというかみさんも連れての旅でした。
 七月二三日朝、現地イギリスの某ホテルで集合ということで、同行六人思い思いの便で二二日中にロンドンに着くべく成田を立つことになりました。私は面倒見のよいH青年に、席はビジネス、サービスはエコノミーというBAのチケットをお願いしました。
 二一日早朝、大学受験勉強真っ盛りの息子を一人自宅に捨て置いて、これも男一匹自立訓練とばかり、不埒にも私どもは東京を後にしました。午前一〇時、BAのカウンターでチェックインの手続きをしたところ、しげしげとチケットを見てるじゃありませんか。テロの影響もここまでかと思いつつ、カウンターで言われたのは、「これは明日のフライトです」「な、なんで。なんで、どおして???」
「H君、ど、ど、どうなっているのよ!」東南アジア経由の旅慣れ格安チケットで出発したH青年はもちろんいません。
 そうか、地球の回転を追っていく旅行は日付が変わらないのです。ぎりぎりまでスケジュールが詰まっていたので、親切なH君にオンブに抱っこに肩車。
二一日出発と勝手に思い込んでいた私のミスでした。チケットの日付も確かめぬお馬鹿さん。
 ここからが修羅場に慣れた戦中生まれの強み。心の動揺、微塵も見せず、「一日遅れるより早くてよかったね。神様がくれた休日だ」(神様ごめんなさい)
 早速、成田のホテルに予約を取り、あとは突然発起の成田詣で。タクシーの運転手さんにうなぎのおいしい店を教えてもらい、平静の中にも必死のかみさん孝行。やれやれでした。成田山さんがなかったらどうなっていたろう。飛行場のそばにディズニーランドを誘致すべきだね。
 そういうわけで翌日、二度目のテロで、冷静さをよそいながらも雄雄しく対峙するロンドンへと旅立ったのです。出だしがこれですからこの後の旅も予想しない事態の連続、まあたくさんのよい出会いのあったすばらしいディスレクシアを知る旅行でした。「ねえ、かあさん、そうだったよね」「・・・」
 
 
 愛しのラリー 
 
 朝、早めに家を出ると不思議な生き物にであった。
 もちろん飼い主に捨てられた何とかニシキヘビとか、イグアナの類ではない。見れば、品のいいご老人がボールのような生き物を引っ張って散歩をしている。ボールとはいったが四足でちょこちょこ歩くさまはどこか犬に似ている。
 月に何度か出会ううち、とうとうがまんできなくなって、まずは黙して挨拶。次はつぶやくように「おはようございます」、そして三度目に「おはようございます、かわいいいですね」の本音の社交辞令。人情薄き都会なれど、さすがに育ちのよいご老人は違う。わざわざ足を止め「おはようございます」それがきっかけだった。
 名前はラリー。やはり犬である。聞けばポメラニアンだそうだ。もっともラリーは超肥満。そのうえ全身総カットで丸いたわしのような風体なのである。まん丸なお尻がいと愛らしい。
 別に雪やあられがコンコンと降らなくても、庭駆け回るのが犬と相場はきまっている。飼い主の外出を察知し、連れてってと引き綱さえくわえてくる犬もいると聞く。
 ラリーはお散歩が大嫌い。食っちゃ寝、食っちゃ寝のごろ寝趣味派。まさに犬らしからぬ、人間似。それでこそぐうたら人生。理想のハッピーライフ。毎朝、いやいやのお散歩だという。散歩中は不満たらたら、不機嫌のかたまり。
 立ち止まってのご挨拶が、待ってましたの休憩と思ったのか、「不機嫌なんです」とおっしゃる割には、慣れてくれるのでまたかわいい。それからは出会うたびに、ほんの数分だが頭や身体をなでなでする逢瀬が続いた。別れ際にはご老人、深々と頭をたれ「ありがとうございました」
 会えない朝はデートをすっぽかされたような張り合いのなさ。いろいろ出遅れたりして、まったく逢えない日が続くと、朝飯もそこそこにタイミング調整。こうしてラリーは不登校、いや出社拒否気味のわたしの大いなる励みとなったのである。これってアニマル・セラピー?
 そんなある日、ラリーの住まいが判明した。かねてより通勤途中の瀟洒なお宅、外塀には季節の花々がプランターで飾られ、道路際の雑草も伸びれば刈り取るこころ使い。よその庭先に平気でごみを捨てたり、自分の家の前しか掃き清めぬ人々が当たり前のご時勢に、ここに住むのはいかなる御仁かと思っていたまさにそのお宅だった。
 夕方、これも品のよい老婦人が件のラリーを連れて、門扉を開けているところに出くわしたのである。あつかましくも「ラリーちゃん」と呼びかけると、ご婦人、ぎょっとするも、通りすがりの人に孫のかわいらしさを愛でられたような微笑返し。この日から、老夫妻とラリーを仲立ちにご近所付き合いが始まったのである。
 逢えない日は、そのお宅にむかって「ラリー、行ってきます」とそっとつぶやく。買い物帰りのご婦人に出会えば「ラリーちゃんは元気ですか」のご挨拶。
いつかお散歩係りを拝命したいものだと思う今日この頃である。
『ラリー♪ マイラブ♪ ソー スイート♪』