五輪書に魅せられて―その疑問・謎に迫る
江 川 びん成
■はじめに
江戸時代に宮本武蔵というとても強い侍がいたことは、日本人ならば、とりわけ三、四十代以上の日本人ならば大半が知っているであろう。映画やテレビ劇でしばしば登場していたからである。むろん、私もその一人であり、宮本武蔵の映画やテレビ劇は全部見てきたほどのファン？であった。しかし、それは、あくまでも作り物の武蔵像に接したのにすぎなく、武蔵の実像に迫る本格的な理解となり得るものではなかった。
大学紛争が本格的に始まり出した昭和四十二年、大学院に入学した年であったが、たまたま、岩波文庫の『五輪書』（宮本武蔵著・渡辺一郎校注、一九八五年）との出会いに恵まれた。それが、剣豪・宮本武蔵の実像に迫る本格的な出発点となったのである。江戸時代の文書であるため、所々分りにくい箇所があったが、「これはすごい本だ！」と思った。文章表現はともかくとして、記載内容に古めかしさがなく、とても合理的であると直感したのであった。今流に言えば、ある種のカルチャー・ショックというところであろうか。それ以来、宮本武蔵と『五輪書』への関心が強まり、今日に至っている。
そもそも『五輪書』は、宮本武蔵の編み出した二天一流（二刀一流ともいう）を学ぼうとする者のための実践的な兵法書である。しかし今日、それは、剣道のみならず、柔道・空手道・拳法など武道関係者をはじめ、広くスポーツ関係者にとっても、技術と精神の両面において何かと示唆に富んでいる。さらには、流動化変で、閉塞感が漂っている今日、政・財界のトップをはじめ、経営者、ビジネスマンにも、『五輪書』は何かと参考になり、仕事上のヒントを数多く与えてくれることであろう。また、日本人はもとより、世界各国の人々にも、心の深いところで共感をよび、心の拠り所となるはずである。ちなみに十数年ほど前のことであるが、アメリカやフランスで翻訳され、ビジネスマンの間で広く愛読されていたという。
その訳は、『五輪書』が人類にとっての普遍的価値、つまり＜合理性＞と＜個の確立＞を基本としており、時代を越え、民族を越えて私たち現代人にも強く訴えるものを随所に有しているからであろう。まさに、剣豪・宮本武蔵の剣の理法と思想は、欧米人の伝統的精神ともマッチしているのである。真に個性的なものは、また普遍性を有するのである。『五輪書』は、私たち日本人が誇りにできる精神的遺産の一つである。
ところが、私は、ここ十数年ほど前から、『五輪書』に関して、幾多の素朴な疑問を抱くようになった。何度か繰り返し読んでいくうちに、理解が次第に深まってきたためであろうか。そして、五十代の半ばを回った頃、「六十歳になったら、いずれは、『五輪書』に関して本を書いてみたい」と思うようになった。そこで、本稿においては、疑問点を三つ取り上げて、それに対する私なりの解をご披露してみようと思う。
■『五輪書』は自筆かどうか
１．素朴な疑問
『五輪書』の第一の疑問は、果たして、『五輪書』が宮本武蔵自身の手によるものかどうか、ということである。この疑問は、現代語訳の一つ、『五輪書』（大河内昭訳、教育社、一九八○）を読んだときから、抱いていたものであった。その根拠はつぎの四つである。
第一に、自己の流派名が一つではなく、二つ出てくること、第二に、二天一流を創始した時期・年代の記載がないこと、第三に、目つきの項の記載が少ないこと、第四に、リラックスについて特段の記載がないこと、である。
リラックスも、目つき・目の使い方も、現代の格闘競技では大切なものである。武家社会においても、一対一や一対多の戦いをはじめ、多人数の合戦の際には、それらは軽視できない。否それどころか、とても大切な事柄である。したがって、そうした大切なものについての記載がないとか、少ないのは変だと直観したのである。この疑問は、現代語訳を終えた今なお、変わらないばかりか、むしろ強まった。
ところで、『五輪書』（宮本武蔵著・渡辺一郎校注、岩波文庫、一九八五）によると、「『五輪書』は、日本剣道史上、二刀流として異色の存在である二天一流の基本的伝書で、正保二年（一六四三）、流祖宮本武蔵玄信の著と伝える」とある。そして、「『五輪書』は、いわばこの「兵法三十五箇条」を敷衍し、肉付けしたものと言って過言ではない」とある。さらに、「武蔵の自筆本が現存せず、流布本によって字句の異同もあり、従来ともその成立については種々の疑問があるが、…」という。これは、これまでのいわゆる定説と考えてよい。
これによって、やはり筆者の素朴な疑問は単なる憶測ないし当てずっぽうではないことが判明した。ただし、従来の定説が掲げる根拠と、筆者の根拠は異なる。定説の方は、物的証拠の欠如、つまり武蔵自筆の原本の未発見によっている。一方、筆者の方は、内容上の不足ないし欠如のゆえに、疑問を抱いたのである。両者の根拠に相違はあるものの、現存の『五輪書』は武蔵玄信の自筆のものではないという点で、一致している。
現存の『五輪書』が、武蔵自筆の「兵法三十五箇条」を敷衍し、肉付けしたものであったとしても、現存の『五輪書』は武蔵自筆のものではない。それは写本であり、いくつか流布本があるが、その一つに細川家蔵本の『五輪書』がある。これは、寛文七年（一六六七）二月、武蔵玄信の高弟、寺尾夢世勝延が山本源介に与えたものである。
今日、世に出ているのは、渡辺一郎校注『五輪書』（岩波文庫、一九八五）である。これは、細川家蔵本の『五輪書』を底本とする、日本思想体系『近世芸道論』所収の『五輪書』に、振り仮名・送り仮名を大幅に増やし、中黒（・）を付し、「云」や「之」などの漢字を仮名にし、明らかな誤写は訂正するなど、読みやすくしたものである。
２．原点に立ち返っての再検討
そこで、改めて原点に立ち返り、ここに、つぎのような五つの可能性を設定してみた。
� 仝渋犬痢惴淮惱顱戞丙拈邁搬∨棔砲竜�載内容はすべて
原本（自筆）の写本である。
�◆仝渋犬痢惴淮惱顱戞丙拈邁搬∨棔砲竜�載内容の大半は
原本の写本で、その一部分が他の者による修正や加筆がなされている。
�� 現存の『五輪書』（細川家蔵本）の記載内容の一部分
が原本の写本にすぎず、その内容の多くは他の者により書き直されたり、加筆されたりしたものである。
�ぁ仝渋犬痢惴淮惱顱戞丙拈邁搬∨棔砲竜�載内容のすべて
が、原本に基づいて、他の者によ り書き直されたものである。
�ァ仝渋犬痢惴淮惱顱戞丙拈邁搬∨棔砲竜�載内容のすべて
が、他の者によって書かれたものであり（ただしアイディアは、たとえば『兵法三十五箇条』など、基本的には武蔵のもの）、そもそも自筆の原本は存在しなかった。
読者の皆さんは、� 銑イ里Δ繊△匹譴�事実であるとお
思いだろうか。これまでのところ、『五輪書』研究家や、『五輪書』の現代語訳者の中には、�，鮖抻�する方もおられれば、�△鮖惻┐垢詈�もおられる。
現時点では、私としては、�△���のいずれかであると思っている。
３．基になる『兵法三十五箇条』との比較からの疑問
武蔵玄信の自筆の書で、かつ『五輪書』の基になっている『兵法三十五箇条』（一六四一年二月に完成。熊本藩主・細川忠利公に奉呈したもの））と、その二年後に書き始めた『五輪書』との比較によっても、新たな疑問ないし問題点が出てくる。
『兵法三十五箇条』は、計三十五箇条（項目）である。一方、『五輪書』の方は、計七十九項目である。各巻の項目数は、地の巻＝八項目、水の巻＝三十五項目、火の巻＝二十七項目、風の巻＝九項目である。
さて、この項目数の大きなひらきを、どうみたらよいだろうか。『兵法三十五箇条』を著わしてから、『五輪書』執筆までの二年半ほどの間で、武蔵玄信自身の中で大きな進展があったとみるべきか、あるいは、その増加分は『兵法三十五箇条』に基づいて他の誰かが肉付け・加筆したためか、いずれかである。現在のところ、筆者としては、前者であろうと思っている。なお厳密には、今後さらに検討を要する。
さて、原本（自筆のもの）が発見される可能性はどうだろうか。現時点では何とも言えない。過去の事物・事象については、そもそも実在しないこともあり得るが、まだ発見されていないからといって、存在しない、と断言することはできない。今後の発見の努力と幸運にかかっている。意外や意外、原本が偶然にも発見されることさえあり得るのである。過去の歴史的出来事の探求は、私たち現代人に夢とロマンを与え、また想像力をかき立てるものである。『五輪書』の原本の出現は今後の楽しみではある。
■なぜ二刀流なのか
そもそも、長年、武士は両手で太刀（刀）を持ち構えて戦ってきた。しかし武蔵玄信は二刀流をあみ出した。何故に、彼は二刀流を創始したのだろうか。
１．『五輪書』に記されている理由
「地の巻」は「此一流、二刀と名付くる事」（この流儀を二刀流と名づけること）の項において、ニ天一流の必然性つまりその訳について、「一命を捨る時は、道具を残らず役にたてたきもの也。道具を役にたてず、こしに納めて死する事、本意に有るべからず」（一命を落とすときは、武器を残さず役立てたいものである。武器を役に立てず、腰に納めたまま死ぬのは、まことに不本意である）と述べられてある。
また、大勢を相手に戦うときはもとより、室内など狭い場所に立て籠もった者を相手にするときは、二刀の方が有利である、という。しかも、「槍・長刀など大きな武器は仕方がないとして、刀や脇差はいずれも、片手で持つ武具である」と述べてある。さらに、馬上にいるときや、掛け走るとき、それに険しい坂道や人込みの場合などは、いずれも、太刀（刀）を片手に持って対処するのがよい、としている。
以上のように、二刀で戦うことの必要性・有効性を指摘している。そして、必要に迫られ、いきなり太刀を片手で持って振り回すのは容易ではないため、初心者のうちから、太刀（刀）を片手に持って練習させるのである、という。
初心者のうちから、二刀で稽古すれば、平均的な体格の者でも、たしかに片手で自由に太刀を振り回すことができるようになる。また、仮にどちらか一方の腕が使えなくなっても、残った方の腕だけでも戦っていけるわけである。
これで、二刀一流の理念と、剣における合理性を追求しようとする武蔵玄信の姿勢のほどが、確かに分った。しかし、そうした理念とは別に、実際のきっかけないしヒントは、なかったのだろうか。どうしても何かあるのではないかと、私はあえて考えてみたくなったわけである。
古くより、合戦で馬に乗っているときは、武士は左手で手綱をさばき、右手に太刀を持って、飛んで来る矢や敵の槍、長刀、太刀などを振り払う。しかし、馬上ではなく、地上で闘うときは、両手にそれぞれ一本ずつ太刀を持つことはなかった。そもそも武蔵が、両手に一本ずつ太刀を持ってみようと思い立ったきっかけは、一体、何であったのだろうか。
２．二刀流のヒントは十手術か
二刀流の開眼に十手術がヒントとなった、という説がある。『宮本武蔵玄信の実像』（高田泰史編著、もぐら書房、二〇〇二）の中に、つぎのような意味の記載がある。すなわち、弁助（武蔵の幼名）は、養父の宮本無二之助一真（平尾太郎右衛門）と、義母の兄・平田武仁輔正家（無二斉）から、当理流剣術と武内流武術を仕込まれ、当理流十手術からヒントを得て、二刀流をあみ出した、という。
『図解雑学 宮本武蔵』（加来 耕三監修・岸祐二著、ナツメ社、二〇〇二）も、同じく十手説を唱えている。それは、斬り掛かってくる相手の刀を片手に持った十手で受け止めて防御し、逆の手に持った刀で攻撃に転ずるというものであった。
３．実践を通じてのアイディアか
武蔵玄信についての伝記として、豊田又四郎（一六七二〜一七四九）の著書、『二天記』（一七五五）がある。この人物は、細川藩第一家老で八代城主松井家に仕え、二天一流剣道指南役を勤めた。
それによると、武蔵は、伊賀の国（現在の三重県北西部）の有名な鎖鎌の遣い手・宍戸某と試合をしている。武蔵は、宍戸某が鎌を振り出すところを、すかさず短刀を抜いて相手の胸を打ち抜いて、倒れたところをすかさず駆け寄り止めをさした。前出の『図解雑学 宮 本武蔵』によれば、そのときの、短刀を抜いて投げるという咄嗟の対処が、後の二刀流の開眼につながったとする説もある、という。
４．はたまた西洋剣術がヒントか その他に何かヒントになるものがあったとすれば、それは、ヨーロッパの剣術であろうか。私は、大胆に、こう想像してみた。
わが国に鉄砲が伝来したのは、周知のように、西暦一五四三年のことである。台風の荒波で、ポルトガル人の乗っていた船が種子島（当時の薩摩藩・現在の鹿児島県）に漂流した。それが、鉄砲伝来の歴史的瞬間であった。
では何故、西洋剣術（それのスポーツ化したのがフェンシング）が二刀流創案のヒントとなり得るのか。周知のように、西洋剣術は、通常、右手に剣を持ち、左手に盾を持って戦うスタイルである。
ここで興味深いことは、先に述べた十手術の構えと西洋剣術とは、ちょうど正反対である点である。十手術では、右手で十手を持って防御動作を行い、左手で攻撃する。それに対して、西洋剣術では、左手に盾を持って防御動作を行い、右手に剣を持って攻撃する。左右両手を使うという点では、基本的に同じ発想である。しかし、どちらの腕で防御し攻撃するのか、その具体的な対処法において、東洋と西洋とで異なっているのである。
西洋剣術は、鉄砲伝来とともに、わが国に紹介されたはずである。侍はもとより、侍ならずとも多くの人々も関心をもった。むろん武蔵も、幼少の頃より、つよい関心を持ったに相違ない。また、その当時、侍や人びとは、西洋の剣のことを宣教師に尋ねて、けっこう知っていたはずである。
西洋剣術は、そもそも�再鹽疥ｮ�擦任△辰拭�ヨ−ロッパで、十字軍の時代（西暦十一世紀末〜十三世紀末）には、剣を左右に一本ずつ持って闘っていたとのことである。なお、このことは、今日、一般には案外知られていないようである�｣
右手で刀を持ち、盾を持つ左手に脇差を持てば、これすなわち二刀流の成立！、武蔵の構えのスタイルそのものである。当時の侍の標準体格よりもずっと優れていた武蔵（六尺大の大男であったと言われる）にとっては、両手にそれぞれ一本ずつ刀を持ってみようと思うことは、たやすいことであったに相違ない。否むしろ、それはごく当たり前であったであろう。
以上、二刀流創始のヒントとなるものを三つあげてみた。いずれも想像であって、今のところ確たる証拠はない。しかし筆者としては、右手に太刀（刀）、左手に脇差を持って闘う武蔵玄信のスタイルは、十手術よりも、むしろ西洋剣術に近いものを感じた次第である。いずれにしても、この問題については、今後さらに検討してみる必要がある。
■間合に関する記載がほとんどない訳は
１．「間合」に代わるキーワード＝拍子
古くより、武術においては、間（間合）は大切である、と言われる。しかし、『五輪書』には、間合に関する記載がほとんどない。あるのは、「地の巻」の最後の項である「兵法の拍子のこと」においてのみである。「兵法の拍子にも、いろいろある。まず、合う拍子を知って、違う拍子を弁え、大小、遅速の拍子の中でも、適した拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子を知るのが、兵法では大切なことである」（現代語訳）とあるが、この箇所に「間」という言葉が出てくるだけである。
これでは、当然ながら疑問を持たざるを得ない。何故そうなのか。武蔵玄信は、間合の大切さを認識していなかったのだろうか。むろん、そのようなはずは、あり得ない。また、書き忘れたのでもない。では何故だろうか。それに対する私の答えは、つぎのとおりである。
じつは、間合のことを無視したのではない。『五輪書』にしばしば出てくる「拍子」の概念によって対処し、説明している、と考えるべきである。なお、『五輪書』にいう「拍子」とは、一つには「タイミング（時機）」の意味であり、もう一つは「リズム」（調子）の意味である。
２．間合は刻々と変わるもの
攻撃してうまくきめたり、敵の攻撃をきちんと受けたり、かわしたりするのには、間合を無視することはできない。しかし間合というものは、勝負の流れの中で、つねに同じではない。それは絶えず変わっていく。ときには大きく、また、ときには微妙に変わっていく。
そのように、間合が刻々と変わっていく勝負の流れの中で、しかも、技のやりとりが激しく展開していく過程では、いちいち、�佐峭腓呂匹Δ�、大丈夫�ｫ�擦覆匹醗媼韻靴討蓮△い蕕譴覆ぁ�そのような間抜けたことをやっては、いられない。もし、そんなことをやっていたのでは、むしろ危険である。やられてしまうかもしれない。とにかく、間合は一瞬のうちに、いわば反射的に的確に感知すべきものなのである�｣
３．攻防動作の相対性原理
勝負の間合に入っているとき、つまり彼・我の太刀が触れ合う距離の内にいるときは、懸かってくる敵の太刀を、きちんとかわしたり、払い除けたりするのには、的確な予測（ヨミ）のもとに、敵の攻撃動作と太刀の運動軌跡を一瞬のうちにきちんと捉えて、それに対する防御動作をタイミングよく、しかも適切な速度で行うことが大切である。
もし、防御動作の開始がちょっとでも遅れたり、あるいは早すぎたりしたのでは、いけない。また、防御動作の開始状況に見合った速さで、防御動作をしなければならない。もし、防御動作の開始が一瞬でも遅れた場合は、防御動作はそれだけ素早くしなければいけない。そうしなければ、やられてしまうからである。防御動作の開始が遅れずにできた場合は、敵の太刀の速さに応じた速さで防御動作を行えばよい。なにも、むやみやたらに速く行う必要はない。これは、〈防御動作の相対性原理〉と言うべきものである。
攻撃動作についても、同じく相対性の発想が必要である。誰彼かまわず、また状況によらず、いつもこうやればよい、というものではない。対戦相手により、また対戦状況によって、それに見合った攻撃の仕方を考えることである。これは、＜攻撃動作の相対性原理＞と言える。こうして、相対性の発想・原理は、なにも物理学だけのものではなく、真剣勝負における攻防動作の基本原理でもあるのだ。
４．防御の物理学的考察
生死をかけた真剣勝負であれ、今日の格技種目の試合であれ、攻撃よりも防御の方が大切であり、また防御の方が難しい。
物理学的にみれば、攻撃は一つのベクトルである。ベクトルとは、大きさと方向をもった物理量である。速度、加速度、力、運動量はいずれもベクトルである。敵の打ってくる太刀や木刀、あるいは斬り掛かってくる太刀、あるいは突いてくる太刀・木刀（これらはいずれもベクトルである）の刃にかからないためには、間合をはずすだけではなく、そのベクトルをかわすか、変えたりする対処法が有効である。つまり、我が太刀・木刀で、敵の攻撃してくる太刀・木刀を打つなり、張るなりして、それがこちらに向かって来ないように攻撃の矛先（ベクトル）を変えることである。この際、もっとも大切なことは、正確な防御動作（これも一つのベクトルである）を、タイミングよく行うことである。
敵の攻撃ベクトルを変えるという方略は、危険区域つまり危険な間合であっても、出来ることである。否、危険な間合にいるときにこそ、そうせざるを得ないのである。もし、そうしなければ、もろに打たれたり、斬られたり、刺されたりしてしまい、そこで勝負は終わりである。
５．接近戦では間合論は通用しない
武蔵は、たんに＜間を詰める＞というよりも、むしろ積極的に勝負の間つまり危険区域へと入っていき、相手に攻めさせるようにして、それを素早く、かつタイミングよくかわしたり、打ち払ったりしたのであろう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の発想である。
さらには、勝負の間にいて、相手の攻撃意図を素早く見抜いて、＜先の先＞で攻め込んだり、あるいは相手の攻撃技を封じ込めたりしたのであろう。「火の巻」に「枕を押える」という方略が出てきていることを思えば、このことが納得できよう。相手の攻撃の気配を感ずるや否や、攻撃すると見せかけて（これは＜先の先＞のフェイント技である）、その攻撃意図を封じ込めようとしたのである。�坐蠎蠅�斬ろうとしたら、「き」の字のところで押える�察｢�再佑海Δ箸靴討�たら、「つ」の字のところで押える�擦泙拭｢�哉瑤喞靴佑茲Δ箸靴燭蕁◆屬函廚了�のところで押える�擦里任△襦｣
間合がぐっと縮まり、太刀と太刀とが触れ合って、鍔競り合いの硬直状態になったときには、その状態から脱して、相手を斬ったり、あるいは相手からの攻撃を外したり、かわしたりする際は、間合というよりは、むしろ調子（リズム）と拍子（タイミング）が大切である。修羅場を何度もくぐり抜けてきた武蔵にとっては、�困修譴海輯峭腓覆鵑�くそ食ら�ｨ�擦任△蝓�大切なのは調子・拍子であったのだ。『五輪書』では、そのことを調子・拍子という言葉で書き記しているのである。否むしろ、そのような接近した状況では、間合論は通用しない。もっぱら攻撃や防御動作を行う際の調子と拍子が大切なのである�｣
以上のような訳で、武蔵玄信は、真剣勝負というものを、間合論によらずに、拍子論によって捉えたのである。間合という空間概念にとって代り、拍子（タイミング）という時間概念で対処した。言い方を変えれば、いかなる間合においても、いかなる状況においても、敵に勝つためには、攻撃動作や防御動作をおこすタイミングと、そこに見合った速度が大切であるという実践論理である。そのためにも、心身のリズムをきちんと整えつつ、リラックスを図ることが不可欠の条件となるのである。
私の造語で言えば、それは「２ＲｓＳＴ（リズム・リラックス・スピード・タイミング）」である。つまり、先ずは心身のリズムを整え維持しつつ、リラックスを図った上で、タイミングよく、スピーディに攻防の動作を行うというわけである。
■おわりに
以上、『五輪書』に関する疑問点を三つ掲げ、それに対する解答を私なりに考えてみた。これ以外にも疑問点はさまざまある。ここでは、紙面の都合で、三点のみにした。なお、本稿は、拙著『新・五輪書入門―今なぜ武蔵なのか』（北樹出版、二〇〇八）の一部分であることを付記しておく。